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感じることをそのままに...。

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MAR 2011

『悲しいほど、お天気。。。』

そういう話しはいつも突然やってくる。。。若い命がまたひとつ夜空の星となった...。小山田和浩、49歳。小学館『Domani』元編集長。。。字は異なるものの僕の本名も同じ「和宏」なので奇遇ではあるが、僕をフォトグラファーとして最初に女性誌で使ってくれた恩人である...。
12月までゴルフをしていたという彼が、ちょっとお腹が痛いと病院で検査をし「膵臓がんで余命2ヶ月...。」と宣告されたのが12月の22日。そしてまさにぴったり2ヶ月後の2月の22日に息をひきとってしまった。。。
「沈黙の臓器」と呼ばれる肝臓同様、「膵臓」も非常に症状が出にくく、まず「癌」だとわかった場合はだいたいは手遅れなことが多い。特に若ければ若いほどそれだけ進行が早いため、なおさら悲しい結末を迎えることになってしまう。。。

しかしちょうど10年前にもいつも一緒にハワイに行っていた、大先輩であり大親友でもあった男が同じく「膵臓がん」と宣告され、あれよあれよと3ヶ月でわずか45年の人生に幕をひいた時もそうであったように、身近な人の『死』は残された者を著しく成長させてくれる。
逆を言えば僕らは、誰か身内が死ぬまでしなきゃわからない...あるいは気づかないといったことがたくさんあるわけで、それほど僕らは未熟であり無能であるとも言える。
大統領になろうが、ノーベル賞をとろうが、大金持ちになって100億円積もうが、当たり前だが人の命は帰ってこない...。しかし僕らはこの『当たり前』をいつも忘れて暮らしてはいないだろうか??
僕が思うに『生きる』ということは「限り」があること...それをつきつめると最終的には「時間の大切さ」ということになる。人はこの世に『生」をうけた瞬間から生きる時間を失い続けて、いつしか誰もが死ぬわけである。
だから僕がこの世で一番嫌うことはずばり『無駄な時間』。。。それはけっして見返りを計算して表面上プラスになるならないの損得を見極めるということではなく、他の人の目線は関係なしにあくまでも自分にとって、大事なものであり、必要なことであり、そして大好きであるというものを自分自身できっちり理解し、それに対して限りある時間をで少しでも多く費やすということが「生きる」というテーマなんではないかと僕は思うわけである。
ゆえに、仕事だ会社だ社会だっといったたくさんの「いいわけ」を武器にして、自分の意思などまるで反映されていない波に流されるままに流されている多くの人たちを見ていると、何のために生まれてきたのかとても疑問である。
間違ってはいけないのは、無駄をなくすということは効率よく生きろということではない!矛盾して聞こえるかもしれないが、逆に見返りがないものや意味が無いものの中に答えは隠れている。...つまり本来の自分が生かされている意味、自分が存在する意味がわかってくると、成功することよりもそういった失敗や挫折の方がより大切なことであることに気づく時がある。
それは立ち止まったり後ろ向きに歩いたことが、まったく無駄なことどころか、むしろ自らの人生の道しるべを知る意味にとってもっとも必要な時間なのであるということを教えてくれる。失敗や挫折は敗北ではない!勝利や成功へ向けてのの起爆材である。それに気がつかず(つこうともせず...)現代の人たちは最初から恐れをなし危ない橋は渡らないし、まわりと同じアクションしか起こさない...。
そういった他人の目を気にして一般的にとか社会的にとかを理由に、本来の自分らしさに気づかないまま行動している時間こそがまったくの無駄でありもったいない時間なんじゃないかと僕は思う。
だから僕としては、早いうちに自分自身を見つけ出し、自分勝手に好きなことにどんどんうつつをぬかして人生バラ色ですって大声で言い切れる人生をオススメしたい!!!そんなわがままできないって??自分よりもみんなをハッピーにしたいって??
逆に質問するけど、人さまに迷惑かけてはいけないが、そうじゃなければたった一度の短い人生なんだしいいんじゃないの???時間は今この一瞬もどんどん過ぎていってるんだよ???僕の友人達はまだまだ夢も希望もあったのにどんだけ悔しい思いをして、若くしてこの世を去ったと思ってんの???
自分自身もハッピーにできないやつがどうやって他人をハッピーにできるの???なんで???どうして???どうやって???
要は結局自分に自信がないのを世間のせいにしてごまかしているだけである。。。
全世界中の人々を幸せにできる人なんてそうは簡単にぽんぽん現れてはこないし、今の調子じゃおそらく自分がなれるチャンスも(当然!)ない。。。でもそれこそ本当に小さな世界...自分の知っているほんのまわりの世界ぐらいはハッピーにしたいと真面目に思うのであれば、
まず自分自身が来る日も来る日もハッピーに生きる事だ!!
なぜなら人をハッピーにするということは、他人の幸せの為にボランティアすることではなく、自分の幸せをおすそ分けする、あるいはおすそ分けできる余裕があるということだからである。
だからこそ愚かなな我々は善人ぶってまわりのことなど気にせず、まず自分の幸せのことだけを考え、せめて、自分にあった納得のいく楽しい人生を過ごせていてなんて幸せなんだと思えるような人間になることだ。
自分が毎日笑っていられれば、必ずいつしかまわりもつられて笑顔に包まれているはずである。。。そしたらその時「NEXT」を考えればいい。。。
少々話しはずれてしまったが、僕にとって自分なりの『生きている』ことの意味や幸せを手厳しく、そしてもっともわかりやすく知らしめてくれるのが、悲しいかな身内の『死』であった。バカで奔放でいつも人に心配ばかりかけていた自分が、今はそんなに不自由なくほどよく笑いながら生きていけているのも、そういった親友や仲間の若すぎる『死』......そして父(僕が18の時に62で...)や兄(僕が23の時32で...)の思いやりのある『死』があったからこそである。。。だからこそ心や身体が丈夫なうちは、そんなまだまだ未完成の夢の途中でこの世を去らざるを得なくなった人たちの分まで、僕は『自分自身』というステージを責任を持って全うしていかなければ、あの世でみんなに合わす顔がない!!「自分を信じて自分らしく楽しんで生きる」なんつうこれ以上ない贅沢な舞台は、40数年もの長いリハーサルを終え、もうすでに幕は開いているのだ。。。 

そう言えば今までもこういう悲しい場面で感じてはいたのだが、ひとつだけオヤちゃん(小山田さんの愛称)の告別式で確信したことがある。。。棺の中にお花をそえながら亡きオヤちゃんのひとまわり小さくなったご遺体と最後のお別れをした時に感じたのだが、そこに横たわっているのははもうオヤちゃんではなくオヤちゃんの『魂』がただ借りていただけの人形のような身体だけ...本当に今までこの身体が動いていたのかというぐらいものの見事にすっぽりと彼の『魂』はもうそこには存在していないのがわかった。それを見て逆に僕は、下界の人
ひとりひとりが生まれた瞬間、まだ何も無い真っさらな体内に天から神様が修行目的で授けるリアルな『魂』の存在がはっきり見えた気がした。。。
そして「限り」のある身体は死んでしまったが、「限り」のない世界でこれからも生き続けるオヤちゃんの『魂』が、ひとつの修行を終え安らぎの天国に戻っていくんだなぁと想像したら、こぼれ落ちていた辛い涙もいつしか止まり心穏やかになっていた。
さよならでも終わりでもない...親愛なるオヤちゃんの新たな、そしてめでたい旅立ちである。その時泣いてるなんてきっと彼は喜ばないと思った。
雲ひとつない快晴のこの日...
日焼けしそうな日差しの中での出棺の時...本当のオヤちゃんはもういない棺に手を合わせながら、悲しみにくれる参列者を横目に僕は空を見上げた...。するとそこには、真っ青なブルースカイをバックに「なんでそんなにみんな悲しんでんのぉ~?こんなにいい天気なのに時間の無駄だよ~...。」と、いつもの九州なまりのイントネーションで屋根のはじっこにちょこんと...そしてきょとんとした顔で僕らを見下ろし座っている笑顔のオヤちゃんがいた。。。